なぜフィクション内での処女性重視を許容するか

 フィクション内のキャラクターに処女性を求めることと、現実の恋人に求めることはちがうよ、全然ちがうよ、という話。

現実での性について

 まず前提として、現実的な性についての自分の考えは以下のような感じ。


・処女、童貞であるかどうかは人間の価値に一切影響しない
・妊娠を回避した、愛情表現・コミュニケーション・快楽を目的とした、互いの合意に基づいたセックスを肯定する*1
・セックスには「穢れ」「汚れ」「悪」といった意味は付随しない。


 現実の女性に対し、処女でないことが何らかの負の意味合いを持つ、という考えは、嫌い。
 童貞、素人童貞、非童貞、処女、素人処女、非処女、セックスワーカー、セクシャル・マイノリティ、成人同士の合意に基づく変態さんは、それを理由として差別されず、また貧困や他の理由によって、自由意志に基づかないセックスを強制されない世界になってほしい、と考えています。
 ちなみに個人的に交際する場合は処女は苦手です。それは、性に関して保守的な考えに同意しないことが一番の理由で、処女でもオナニー大好き、といった女性の場合は特に苦手としません。また、好きになった相手が処女だった、という理由で嫌いになることはありません。


 その上で、「二次元と三次元は別」「フィクション内においては処女性重視はある程度許容される」*2とも考えていますし、また自身それに共感します。
 以下、その理由について説明してみます。

作り手としての理由

 自分はPCのエロゲー、コンシューマのギャルゲーなどのテキストを仕事として書いています。
 そこに登場するヒロインは、現実の女性とイコールではありません。物語を構成する要素のひとつであり、その物語は、購入したユーザーを満足させるためにあります。
 そして、恋愛要素を重視したフィクション、それも一人称テキストゲームのように、ユーザーと主人公の共感度が高いメディアにおいては、ヒロインと主人公以外の恋愛描写・設定はネガティブな要素になります。
 これは、「エロゲーのヒロインは全員処女・恋愛未経験であるべき」という意味ではありません。「特段の理由がないならば、その方が適切だろう」という意味です*3。つまり、物語上必要がある場合を除き、わざわざネガティブな要素を入れ込む理由はない、ということです。ストレスや不快感を、物語のカタルシスのために利用する、という手法をとることはあります。また、経験豊富であることが“売り”になる、自然である、キャラクターの場合は「物語上必要がある場合」になります。
 ちなみに男性向けギャルゲー、エロゲーの話なので、女性向けのゲームについてはこのへんどうなっているのかは……基本的な構造としては共通する部分も多いと思うんですが、差異がどのへんに置かれているかとかはよくわかりません。

フィクションと現実

 フィクションと現実は違います。
 フィクションの中のクライム・ファイター(たとえばバットマン、たとえばパニッシャー)が悪漢を殴りつけ、時に殺してても、自分はそれを「カッコイイ」「爽快だ」と感じます。けれど、それが現実であったら、同じように感じることはありません*4。それは性的な犯罪、犯罪とみなされる性的嗜好についても、他の様々な“不道徳”な行ないについても同じです。
 物語の中では、物語の論理、倫理によって快不快、肯定否定が発生します。それは、現実世界の倫理、論理とは別のものではないか、と思います。


 ……というのがまあ、自分が「現実では処女が苦手だけど二次元では“特段の理由がない限り処女でいいじゃん”派」である理由なんじゃないかなぁ、と思ってるんですが。
 あとはまあ、物語内のキャラクターは、どれほど設定を重ねても、現実の人間から要素を切り取って再構成したものであり、情報量に圧倒的な差があるので、要素ごとの重要度、あるいは感じ方が変わってくるんじゃないかなぁ、と。これ同じこと繰り返してるだけか。

処女厨暴動

 んで、自分はけっこう、フィクション内でヒロインの昔の男やら主人公の恋愛的ライバルが出てきた場合は「こんなの出さなくていいんだよ!」と思うことが多いです。ハーレムものも大好き。でまあ、ぷりぷり怒ったり、友達に愚痴ったりすることはあります。
 ただ、そこでヒロインにビッチだの中古だの言う気持ちはなく。
 強いていえば「そんな展開望んでないんだよ」、つまり作者側に向かうわけですが、嫌がらせしよう、とか、抗議しよう、と思ったことはないです。あ、相手が知り合いの時は抗議してるな! あとは、ヒロインの浮気相手は嫌い、というか邪魔に思うことが多いかな。
 あれ、これって、浮気した時に恋人を責めるか浮気相手を責めるかみたいな話? 自分は二次元では浮気相手がいなければよかったのに派、三次元では浮気とかどうでもいい派。
 かんなぎについて言えば、「えー前からわかってたじゃん」「産土神に処女とかいわれても」「ナギより白亜とつぐみのほうが」「ナギの可愛さはそういうのとは別ベクトルだし」などなど、ぼんやりと思うだけで共感せず。かつ、フィクション内の処女性重視については許容、共感するとはいえ、そこでヒロインを悪し様に罵る感覚はわからないし、「中古」などの言葉遣いに関しては、不快に思います。

フィクション内の処女性

 主人公とヒロインが結ばれることが定められたフィクション内では*5、ヒロインから主人公への執着や肯定を表わすことが重要であり、ヒロインと主人公以外の恋愛要素は邪魔っけです。そのため、結果として処女性を求められるのだと思います。 
 あと例外、バリエーションはいっぱいあります! 一人称のテキスト形式ゲームでも主人公のキャラクターの濃淡とかもあるし! 俺は士凛派だから弓凛は寝取られ! 「だってそれ****じゃん」って言われてもぜんぜん違うっつうのな!

二次と三次は

 そういうわけで違うよ、ぜんぜん違うよ!
 処女性重視の思想が嫌いな自分ですが、二次元の中では主人公とヒロインの関係性*6を重視するので、それに対してネガティブな要素は好きではありません*7。そういう意味で、フィクション内での処女性重視は許容し、共感します。

*1:妊娠の可能性がゼロではないことは周知徹底されるべきだが、避妊具を使用したセックスが妊娠を目的としないことを否定しない

*2:ただし、それを理由にたとえば原作者に嫌がらせをする、というのはまったく別の話

*3:また、わざわざ描写・設定をしない、という消極的な手法も存在します

*4:自分は、ね

*5:エロゲー、ギャルゲーでは一般的な傾向だが、フィクション全体というわけではない。そして、かんなぎはギャルゲー的な要素を押し出した作品ではあった

*6:サブキャラ同士のカップルはどうよ、というと、それはそれで大好きです

*7:もちろん、それが物語にとって有益な場合は肯定します

はてなブックマークリニューアル後の不具合

すべてFireFox3で発生。IEで開くと解消される。
・ブックマークできない/読めない
マイケル・ジャクソンイスラム教に改宗して改名、名前が「Mikaeel」に - GIGAZINE
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20081122_mikaeel/
で確認。はてなバーのブックマークボタンではなぜか、
20081122_mikaeel
http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//gigazine.net/index.php%3F/news/comments/20081122_mikaeel/
というページに飛ばされる。ブクマコメも読めない。
はてブのトップからマイケルで検索して該当ブクマページに辿り着くとブクマできる。はてなバーの不具合かも。


・スターがつけられない
ブックマークコメントが多い(50件以上?)場合に発生する気がする。
スターをつけると表示されるように見えるが、マウスオーバーでIDが表示されず、実際には反映されない。
100ブクマ以上では例外なく発生。IEで開くことで解決。


・スターが見えない
スター自体が見えていない場合もある。ブックマークが多い際に発生する気がする。


・表示が崩れる
IEとFireFox3ではブックマークする際のタグ表示が違う。


不具合報告をしようとおもって「はてな 不具合報告」などでググってみたが方法はわからず。お問い合わせフォームは見つけられたが、ヘルプをクリックするとなぜツアーが始まるのか理解不能
……と書いてからもう一度ヘルプを見たら、はてなアイデアで不具合報告ができるらしい。わかりにく。

「女性専用車両に男性が乗っていました」について

女性専用車両に男性が乗っていました
 に関して、アレコレ思ったこと。

違うグループに入れられたようだ

 どうも自分は、「マスクの男性は何も悪い子とをしていないのに、怖がる増田がおかしい」とか、「女性ないし女性専用車両自体に敵意を持っている」という主張を持っている、と見られたようだ。
 これは非常に残念というか、そんな風には考えていない。

問題意識

 端的に言えば、自分の問題意識はウェブ上の情報に対するリテラシーの問題のみだ。
 そして、その対象は元増田や、そのエントリではなく
 ウェブ上の、限られた情報から断言する行為に向けてのものだ。
 元増田が意図的に嘘をついている、と思ったわけではないし、元増田が勘違いをしている、と主張しているわけでもない。あくまで、元のエントリだけを見ても、マスク男に悪意があったとは断定できない、ということだ。
 つまり、元エントリだけで判断するなら、
「風邪を引いて朦朧としていた結果、アナウンスや増田の指摘を聞き損ねた」
「肩を叩かれた際に頷いたのは、内容は聞こえないがとりあえず頷いたものだ。駅員がより大きな声で直接的な接触を行なったため、そこで初めて気づいた」
 という可能性は、ないとは言い切れない、ということだ。
 元増田が早とちりをしたという話ではない。というか、元増田に対して何か主張するつもりはない。
 ウェブ上の情報、エントリに書かれた情報だけでは判断できない部分がある、ということで、だから同じように「マスクをしていたのだから風邪に違いない」とか、「マスク男に悪意はなかった」と断定することはできない。そして、そちらのほうが、悪意があると判断するより無理がある、と言われれば賛同する。断定するのと、「どちらかといえば、こちらが可能性が高い」と言うのは、自分にとってはまったく別のことだ。

やりとりの中で

 そういう問題意識を持って、
「女性専用車両に男性が乗っていました」が気に入らない理由はなんですか? - わたしはパパの嫁になりたい。にコメントしたのだけど、その中のやりとりで困ってしまった。

あなたがしたいことは何ですか?
単にオンナが騒がなくなれば満足ですか?

原因から目を背けたいあまりに
弱者に八つ当たりして思考停止していませんか?

 自分にはid:koisuru_otoutoが、どうしてそう問いかけてくるのか理解できなかったからだ。僕はあくまで、エントリの限られた情報で判断することの問題を提示したつもりだった。
 また、そのやりとりについたid:feather_angelブコメにも困惑した。

「米欄のid:WinterMute氏はご自身が「元エントリからでは断言できない事を断言している」事にお気づきか?それが断言でないというならブ米も断言ではないのでは?」

 それは悪魔の証明を求めている、ということなのだろうか?*1 それとも、「風邪のせいで朦朧とした人間は、絶対にそのようなことをしない」という確信があるのだろうか。そういう話ではなさそうだ。

配役

 そんなわけで、もしかして、これは何かステージが違う話なのかな、と思い始めた。
 違和感を抱えつつ考えているときに、ふと、やりとりを以下のような配役に落とし込んでみたら、ストン、と納得がいった。

自分:怪しい男がいるので助けてください。
駅員:どのような人物ですか?
自分:女性用車両に乗っており、マスクをして、アナウンスにも反応しません。
駅員:それは風邪かもしれないから放っておきましょう。
自分:でも、肩を叩いて声をかけたら頷いたのに移動しません。
駅員:もしかしたら聞こえてないけど頷いたのかもしれませんよ。

 自分が、このような事態を容認する主張をしている、と受け取られているなら、先ほどの問いかけも当然のことだ。
 警官に入れ替えれば、容易に桶川のストーカー事件を想起させる。
 職務であれ、あるいは通りすがりであれ、その場の当事者であれば、話はまったく変わってくる。その場でやりとりができる、確認できるというのと、ウェブ上に存在する情報を解釈することは、まったく別の話だ。

怖かったこと

 実を言うと、一連のやりとりが、僕は怖かった。
 対話ができない恐怖、理解できない恐怖があった。自分でも情けないとは思うんだけども。相手の論理が理解できないという感触は、ホントに怖かった。
 最初は、自分が男性なので、女性の“感覚”への理解が足りないのか、無自覚に男性側を擁護しているのか、とも考えたのだが、自問してもしっくりこず、それも怖かった。
 けど、「こういう筋道ならわかる」と、上記の想定を思いついたら、それで怖くなくなった。「その論理を“現実”に持ち込まれては困る」という論理で批難されているのなら、理解ができるからだ。もちろん、こちらの一方的な想像に過ぎず、的はずれな話なのかもしれないが、ひとまず恐怖からは解放された。

想定する場とリテラシー

 今回の、自分の懐疑的な態度は、あくまで、「ウェブ上に存在する匿名のエントリをどう受け止めるか」というステージでのもの、のつもりだった。
 たとえば、情報をそぎ取られたニュース記事に接して安易に被害者を叩くような、あるいは不正確な情報での煽りに簡単に乗ってFAXを送ってしまうような、そういう層へのカウンターとしての問題意識だ。
 発想が実際の場面に波及する可能性は、正直に言うと考えていなかった。それは、自分にとってはまったく別のレイヤーの話だからだ。それについて、考えが足りない、と言われれば、認めるしかない。「エントリの情報が不十分である」という主張が、当事者である場においても、同様の主張を生み出す意図、あるいは効果を持っていると判断されたのだとすると、投げられたコメントにも納得がいく。

反省点とか

 このエントリを書くにあたって、これまでのブコメ、参照したエントリなどを読み返してみたけれど、自分のブコメは確かに誤解を招きやすい。あるいは誤解ではない、考えの足りなさが表われていた。不快感を与えた方には申し訳ない。
 特に、元エントリに追加されていた補足に気づいていなかったのは情けない話だと思う。繰り返すけれど、元増田が悪いとは思っていない。


 あとまあ、すごいダラダラと長文を書いたけど、こんなこと、みんな最初から気づいてたんじゃない? あるいは、的はずれなこと書いてるんじゃない? ってのはある。いい年してお恥ずかしい話ではある。

*1:idコールの際にブコメをぐだぐだいじっていたのは、その違和感から攻撃的になってしまった文章の訂正などからです。申し訳ない

人格を変えなくてもモテるようになる方法

ブコメ100字じゃ書ききれないとおもったので久々に。


○○というだけで嫌われるひとはいない - E.L.H. Electric Lover Hinagiku
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20081013/1223883397


前半ほぼ同意。んで、後半についてなんだけど、

ただいずれにせよ、ひとが嫌われるときは複合的な要因でそうなることがほとんどである。上に引用した匿名ダイアリーの書き手の人々も、それ、その記述から透けて見える人格そのものが嫌われてるんじゃね? というタイプが多い。

ちょっと違って、嫌われてるのはあくまで「その記述」。
その上で、投稿者が訴えたい内容ではなく、その言い回しや、細部の思想性が嫌われている。

なので、人間性をどうにかしろという話になるんだろう、結局。
ただ――最近確信したのだが、根本的な人間性は変えられないし変わらない。少なくとも、そういうふうに育った成人のそれを、専門家でもないわれわれごときが言葉でどうこうできると考えるのは傲慢だ。

だから別に“根本的な”人間性を変えなくてもいいんじゃないかな?


まず、はてな匿名ダイアリーの記述から、その人の人格すべてを把握することなんてできない。
次に、人格というのは内部に相反した複数の属性を抱え込んでいるものだ。
人格が多面的なものである以上、ある面を意識して表に出し、ある面を意識して引っ込めることで、“根本的な人間性”は変わらなくても、“他人から見える人間性”は変わる。つか、そんな大層な話でもなくて、ちょっとした言い回しのクセを直すだけで劇的に人間関係が改善されたりすることはある。それって別に人間性の問題ではないよね。


もうひとつ。エントリについたブコメやらトラックバックでいくら叩かれようと、その増田が実際に周囲で嫌われているとは限らない。本人の把握している「周囲から見た本人像」が正しくないことは多いし、また周囲、といってもそれぞれ違うように見ているはずだ。
これってよく「ネットとリアル」とか、「ヴァーチャルとリアル」とか表現されるけど、しみじみとアホらしい表現だと思う。学校、クラスでの立ち位置と、学外のサークルでの立ち位置が違う、といった事例は昔からある。現実というのは元々多面的なもので、インターネット、というのはその一部に過ぎない。
それに人格というのは多くの場合、確固として不変なものでなく、関わる相手によって引き出される面が変わる。だからまあ、所属するコミュニティを変えるだけであっさり解決することも少なくないよ、という話。


まとめ。
嫌われるのは人間性の問題だよ→人間性は変わらないよ
に対して、
他人が見る人間性ってそんなに固定されたものじゃないよ。細部や人間関係で変わりうるよ。
ということが言いたかった。あれ、これなら100字で書けるじゃん。まあいいか。


はてな匿名ダイアリーとかブコメで見る自称非モテについて思うのは、自意識が過剰すぎて、自己像を固定してるんじゃないかな、ということ。自分が好きすぎて、他人をちゃんと見てないよね、かな。あるいは視点が高すぎて、周囲を一緒くたにしてるけど、もっと視点を下げて他人を個々に見れば、みんなが同じようにキミを見てるわけじゃないよ、みたいな感じ。
この本はけっこうオススメ。モテない=キモチワルイ理由として、自意識の過剰さを挙げている。自意識、って言葉はあんまり使ってないけど、そういうことだと思った。「キミはキミが思ってるほど特別じゃないよ!」と繰り返し言うところが、好き。

すべてはモテるためである (ムックセレクト)

すべてはモテるためである (ムックセレクト)


それはそれとして、矛盾しているようだけれど、

古来から、哲学や文学はそういうひとたちの友だった。
現代ならばアニメもマンガもゲームもある。伴侶は多いさ。

これはまったくもって同意。

追記

タイトルが釣りだったので方法を書いておく。
・人格を変えなくても他人から自分がどう見えるかを意識することで改善できる
・人格を変えなくても相手を変えれば好かれる(かもしれない)
・人格を変えなくてもコミュニティを変えればモテる(かもしれない)
ですよ!

「普通にいじめ」という曖昧で不定型な概念

あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのはてな日記
 というエントリは、
ハゲのおっさんから一言
(→関連:増田さんについて - ニコニコ動画 開発者ブログ

 によって、つまり、本人による「いじめられてないよ」という発言で、振り上げた拳の行き先を失ったように見える。
 いや、対象の持った感情にかかわらず、構図が共通してれいばいじめなのだ、という論理は、正直やめておいたほうがよいと思う。あまりに曖昧、万能にすぎて、ありとあらゆる局面で「いじめの構図」を見いだしてしまうことになる。どんな場面にも当てはまる構図は、何も表わしていないのと同じだ。


 いじめ、に関する話でいつも感じるグダグダ感、がある。
 「それっていじめだよ」「いじめじゃないよ」みたいな話って、
ハゲのおっさん7日間戦争 - ls@usada’s Backyard
 にあるように、「誰が定義するのか」の問題と、定義が曖昧すぎるため、想定されるケースが膨大、かつ個人個人でブレすぎるために、話が噛み合わない、というパターンが多い気がする。

自分より弱い立場にある者を、肉体的・精神的に苦しめること。
(いじめ いぢめ 0 【▼苛め】 - goo 辞書)

肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって苦しめること。特に、昭和60年(1985)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い。
Yahoo!辞書 - いじめ【苛め/虐め】

いじめ(苛め、虐め)とは、相手の肉体的・心理的苦しみを快楽的に楽しむことを目的として行われる様々な行為。実効的に遂行された嗜虐的関与(内藤朝雄「いじめの社会論」)。
いじめ - Wikipedia

 見ればわかるように、ほぼ「虐待」と同義だ。けれどDVや捕虜虐待を「いじめ」と表現することはない。
 虐待、との辞書上の違いを見ると、目的意識にあるようだ。つまり、「じゃあ対象の苦しみが存在しなかったらいじめじゃないよね」に対して「対象を苦しめる意図があった、とすればいじめ行為としてよいのでは」までは辞書的に自然な流れ、ということになる。さらに、「対象が苦しむことが想像できる場合、苦しめる意図がない、という言い訳は通用しない」とかそういう方向になって、このへんで初期の認識が混乱してステージが変わっていく、というのはまあ、虐待でもモラルハザードでも同様の流れはよく見る。


 「あのー、それ、普通にいじめなんですけど」という一文が破綻するのは、「普通にいじめ」という言葉は、それを補佐する定義付けなしには使えないし、そして、定義した時点で、何割かは「普通」を共有できなくなる、という認識がなかったため、だと思う。

いじめについては他にも様々な問題があるが、ひとまず「集団の内部と外部」という構造が見て取れる点だけを、今回は問題としてみる*1。(あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのはてな日記)

 元エントリでは繰り返し「集団から阻害」という表現が出てくるけれど、まず、“集団”はいじめの定義に必要な要素ではない。
 さらに言えば、集団の内部・外部という図式にこだわることには、自分は共感できない。これは多分、多分、id:thirが学生であるために、なんか固定されたグループvs個人、みたいな図式に敏感なんじゃないかな、と思ったりもした。学生なんで、という言い方はフェアではないけれど、体感としては、サラリーマンにせよ、自営にせよ、“社会人”になると、グループへの執着みたいなものは昇華されていく傾向にある、と思う。あくまで、傾向としてね。


 「いじめ」という言葉は意味が広すぎて齟齬が発生しやすいので、学校外のものに応用し始めると、途端に曖昧でグダグダした理論になりがち。使い分けとしては、学校・クラスや、会社の職場、といって、固定メンバーによる、変更の難しいグループ内での事象に限定して使ったほうがいいと思う。あと「普通」は、ほんとよくない。「普通」って付いただけで、たやすく隙を作る悪魔のワード。原則使わない、としたほうがいいんじゃない? と思うくらいです、ほんと。

自殺認可制

 急増する自殺の対処に頭を悩ませた総理は、日本一賢い男の元へ行き、この自殺増加を止める方法はないかと尋ねた。
「あるよ」
 日本一賢い男はあっさりそう答え、総理は驚喜して、あらゆる手をつくしてそのアイデアを実現した。
 それが、自殺認可制である。


 自殺認可制とは、各市町村の役場で許可をもらうことで、苦痛なく、安全に、他人に迷惑をかけずに自殺させてもらえる制度である。支給される薬物は“コロリ”と通称され、安らかに、眠るように死ねる、という評判であった。役所の自殺課では、24時間の呼び出しにも応じ、引きこもりのニーズにも対応していた。
 マスコミを通じ、“コロリ”の快適さと、人類の権利として、あらたに自殺の権利が認められたことが喧伝された。“コロリ”の通称も、大手広告代理店の売れっ子コピーライターの手によるものだった。
 同時に、無許可での自殺は“ダサい”“苦しい”という印象操作を行なった。ネットを通じ、これまで苦痛がないと言われていた排ガス、首吊りなどは、実はとてつもない苦痛を伴うという噂が流され、アルファブロガーと人気芸人が、それぞれ許可のもとで自殺した。日本においては、自殺とは公的な認可の元で行なわれるものだ、という“空気”が作られていった。


 役所の自殺課に赴くと、自殺理由を規定書類に記入する必要がある。これは統計的な必要性のため、と説明されるが、内容が特定の要素を備えていた場合、専門のカウンセラーが現われることは、ほとんど知られていない。
 経済的理由であれば、借金の整理と生活保護の手続きが行なわれ、精神疾患によるものであれば精神科医による診察と処方が行なわれる。場合によっては措置入院となるが、これについては「自殺の権利は保障されているが、心神喪失状態では許可されない」という説明がされる。
 いずれにせよ、担当カウンセラーの処理が終わったあとで、まだ自殺を希望すれば許可されることになる。


 自殺認可制がはじまって3年後。認可された自殺は3000件、国内の総自殺数は1万人にまで減少したが、マスコミが「国が3000人を殺した。そしてその倍の人間が許可なく自殺したので無意味だ」と批判キャンペーンを行なったために、認可制は廃止された。