ポルノについての個人的な意見

 ポルノについて書く。
 それも、ただ、自分にとってポルノとは何か、という、私的な、ポエムめいた文章を書く。
 もう少し、きちんと理屈っぽい、あるいは短くまとまったエントリを書こうと試行錯誤していたのだけど、どうもこれは、ダメらしい、と思った。


 前回のエントリを評価してくださった方の中には、あきれかえる人もいるだろうけど、僕がポルノを描くのは、社会の悪を描くためでは、ない。
 むしろ、社会の悪を描くためにポルノを利用することを、自分自身には禁じている。
 だから、頂いたブコメやスターには申し訳ない、と思っていて、けれど、矛盾するようだけど、前回書いたことも本心でそう思っている。正直、矛盾しているのかどうかもよくわからない。
 それで、とりあえず、僕にとっての、ポルノについて書く。


 僕にとっての「ポルノ」は、快楽を、性的な、純粋な興奮を提供するものだ。
 僕はだから、「よくできたポルノ」とは、ただ受け手を興奮させて、気持ちよく快楽を提供する、そこによって評価される、と思う。


 エロゲーはポルノの一形態であるけれど、「よくできたエロゲー」がイコール「よくできたポルノ」ではない。
 プレイした結果「社会問題について考えさせられた」り、「泣ける・燃えるストーリーに感動した」りするものは、僕にとっては、「よくできたポルノ」ではない。それは「抜けない」からだ。
 兼ね備えたものがない、とは言わないが、それは単なる技量の上下で決定するものではない。
 「よくできたポルノ」ではないけれど「よくできたエロゲー」、つまり、「抜けないけど面白いエロゲー」はいくつもあって、それが嫌いなわけではない。
 エロゲーという枠だから出せて、ヒットして、結果としてエロ要素を抜いて一般向けに移植したものに対して、「最初から一般向けで出せばいいじゃん」とは、僕は思わない。その作品のために予算を確保し、製作し、流通させるためにも、「エロゲー」という枠は機能する。多くの場合、一般向けで出せたのは「結果」に過ぎない。もちろん、抜けないけど18禁表現とは切り離せない、という形式の「よくできたエロゲー」もある。


 「抜けないけど面白い」はもちろんエロゲーに限らなくて、例えばエロマンガの「キャノン先生トバしすぎ」は僕にとって抜けないが泣ける作品だし、AVにだってエロアニメにだってポルノ小説にだって、そういったものある。そして、それらは「ポルノ」という枠の中だから生まれてきた、という性質を持っている、と、おもう。だから「抜けないけど面白い」を、ただそれだけで非難するつもりは、ない。けれど「抜けないけど面白い」ものだけが、ポルノという枠の中で評価されるとしたら、それは本末転倒にすぎる、と思う。まあ、この話は、ポルノとサブカルチャーに関わる界隈で、何度も繰り返されてきた話題ではある。


 僕は、よくできたポルノとは、ただ受け手を興奮させて、気持ちよく快楽を提供する、そこによって評価される、と思う。
 だから、自分がポルノを手がけるとき──僕はエロゲーエロマンガ原作、エロアニメ脚本、エロ小説などに関わったことがある──要求される仕様の中で、できるだけ、「抜ける」ものが書きたい、と思っている。
 それが受け手に与えるのは、時に背徳の、後ろ暗い喜びである。あるけれども、でも、作り手は、そのことによって、読み手を断罪するべきではない。と思っている。
 僕は、ポルノで、お客さんに楽しんでもらいたいのであって、説教したり、啓蒙したいわけではない。それが、絶対に両立しないわけではないけれど。



 ポルノは、少なくとも今回、既に自主規制という形で規制されてしまったそれは、望む人たちに向けて描かれ、そして、望む人たちが──ポルノの専門店にいったり、ゲーム販売店の18禁コーナーに入ったり、インターネットの通販で、年齢制限を受け、ジャケットやタイトルや概要を確認した上で購入することで、手にするものだ。
 作り手と受け手は一定、固定した環境にある。少なくとも、望まない人間に、無理矢理、ポルノを鑑賞させるようなことはない。それは、あってはならないことだ、と思う。ポルノは確かに背徳的で、時に汚らしくて情けなくて、暴力的であったりするだろうけれど、でも、僕は、受け手にとって「よくできたポルノ」を。抜けるものを、届けたいと思っている。


 自分の手がけた作品が「エロい」「抜けた」と言われると嬉しい。「今までで一番抜いた」と言われるとガッツポーズだ。
 僕は、お金がなくて、乏しい所持金を握りしめて、入り慣れないポルノショップで、緊張と羞恥に全身汗だくになりながら、自分にとって、よい、抜ける、ポルノを探したことがある。外れて悔しかったこともあるし、アホのようにオカズにしたこともある。
 だから、自分の書いたものが、抜ける、よいポルノだ、と。そう評価されることは、とても嬉しい。


 最初、ポルノ愛好者ではない、その「外」に向けて何かを書こうとして、無理だ、と思った。少なくとも、今は、どうやら。
 どうしたって僕は、僕の書くポルノを、あるいは誰かの書くポルノを、それを愛する人のために、必要としてる人のために書いている。ためだけに、書いている。そのことを、いけない、と言われたら、ごめんなさいと、すみませんと言うかもしれないけれど、でも、譲ることはできない。


 僕は、ポルノを愛する人々の中に、現実の女性差別に抗いながら陵辱ポルノを愛する人々がいることを知っている。自分の性嗜好を恥じ、苦しみながら受容する人や、性嗜好は自ら選び取ったわけではない、と、辛く感じる例もまた、多く知っている、つもりだ。
 でも同時に、そういった、傷ついた、切実な想いと、ポルノをセットにすることに、ひどく抵抗がある。傷ついていなければ、この、僕にとって、彼らにとって、いやらしいものに興奮してはいけないのだ、と。そんな風に、言われたくない。


 僕にとってのポルノの価値は、ただエロいこと。ただ抜けること、そのものにある。
 多分、こっちを先に書かないといけなかったのだろうなぁ。