「普通にいじめ」という曖昧で不定型な概念

あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのはてな日記
 というエントリは、
ハゲのおっさんから一言
(→関連:増田さんについて - ニコニコ動画 開発者ブログ

 によって、つまり、本人による「いじめられてないよ」という発言で、振り上げた拳の行き先を失ったように見える。
 いや、対象の持った感情にかかわらず、構図が共通してれいばいじめなのだ、という論理は、正直やめておいたほうがよいと思う。あまりに曖昧、万能にすぎて、ありとあらゆる局面で「いじめの構図」を見いだしてしまうことになる。どんな場面にも当てはまる構図は、何も表わしていないのと同じだ。


 いじめ、に関する話でいつも感じるグダグダ感、がある。
 「それっていじめだよ」「いじめじゃないよ」みたいな話って、
ハゲのおっさん7日間戦争 - ls@usada’s Backyard
 にあるように、「誰が定義するのか」の問題と、定義が曖昧すぎるため、想定されるケースが膨大、かつ個人個人でブレすぎるために、話が噛み合わない、というパターンが多い気がする。

自分より弱い立場にある者を、肉体的・精神的に苦しめること。
(いじめ いぢめ 0 【▼苛め】 - goo 辞書)

肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって苦しめること。特に、昭和60年(1985)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い。
Yahoo!辞書 - いじめ【苛め/虐め】

いじめ(苛め、虐め)とは、相手の肉体的・心理的苦しみを快楽的に楽しむことを目的として行われる様々な行為。実効的に遂行された嗜虐的関与(内藤朝雄「いじめの社会論」)。
いじめ - Wikipedia

 見ればわかるように、ほぼ「虐待」と同義だ。けれどDVや捕虜虐待を「いじめ」と表現することはない。
 虐待、との辞書上の違いを見ると、目的意識にあるようだ。つまり、「じゃあ対象の苦しみが存在しなかったらいじめじゃないよね」に対して「対象を苦しめる意図があった、とすればいじめ行為としてよいのでは」までは辞書的に自然な流れ、ということになる。さらに、「対象が苦しむことが想像できる場合、苦しめる意図がない、という言い訳は通用しない」とかそういう方向になって、このへんで初期の認識が混乱してステージが変わっていく、というのはまあ、虐待でもモラルハザードでも同様の流れはよく見る。


 「あのー、それ、普通にいじめなんですけど」という一文が破綻するのは、「普通にいじめ」という言葉は、それを補佐する定義付けなしには使えないし、そして、定義した時点で、何割かは「普通」を共有できなくなる、という認識がなかったため、だと思う。

いじめについては他にも様々な問題があるが、ひとまず「集団の内部と外部」という構造が見て取れる点だけを、今回は問題としてみる*1。(あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのはてな日記)

 元エントリでは繰り返し「集団から阻害」という表現が出てくるけれど、まず、“集団”はいじめの定義に必要な要素ではない。
 さらに言えば、集団の内部・外部という図式にこだわることには、自分は共感できない。これは多分、多分、id:thirが学生であるために、なんか固定されたグループvs個人、みたいな図式に敏感なんじゃないかな、と思ったりもした。学生なんで、という言い方はフェアではないけれど、体感としては、サラリーマンにせよ、自営にせよ、“社会人”になると、グループへの執着みたいなものは昇華されていく傾向にある、と思う。あくまで、傾向としてね。


 「いじめ」という言葉は意味が広すぎて齟齬が発生しやすいので、学校外のものに応用し始めると、途端に曖昧でグダグダした理論になりがち。使い分けとしては、学校・クラスや、会社の職場、といって、固定メンバーによる、変更の難しいグループ内での事象に限定して使ったほうがいいと思う。あと「普通」は、ほんとよくない。「普通」って付いただけで、たやすく隙を作る悪魔のワード。原則使わない、としたほうがいいんじゃない? と思うくらいです、ほんと。