悪の表現を忌避する社会は悪への理解も拒む

 朝日新聞紙上での連載記事をまとめた『ルポ児童虐待』(朝日新書朝日新聞大阪本社編集局)では性的虐待について一切取り上げていない。それはおそらく、朝日新聞の紙上というコードが性的な表現を許容しないからだ。
 もちろん、性的虐待について扱った本は多くあり、そこに18禁コードが必要なわけではないが、より広く伝わる媒体から性的な話題をパージする意識と、性的な表現を規制しようとする動きは非常に近しいものだ。
 
 朝日新聞紙上で性的虐待に関する記事は書けないのか、というとそんなことはない。そんなことはないが、『ルポ児童虐待』は、実例を生々しく描いこうとする筆致に価値があり(反面、実例を総括する視点が足りないのだけど)、その「生々しく描く」のところでコードに抵触したのだろう、と想像する。ここで問題とされたのは、「表現が生々しいかどうか」であって「性暴力を肯定するかどうか」ではない。そして多くの法的規制、団体による自主規制は、そのレベルでの区分けしかできない。
 
 一括して規制したら、表現はそこでストップする。少なくとも、僕が認識している、いくつかの(個人的な感覚では多くの)商業媒体の表現についてはそうだ。「悪を描く」を許容しない時点で、肯定とか否定とかは関係なく、事象そのものに触れることができなくなる。
 
 暴力を描くのが許されるのは、より洗練された表現が存在したから──ではない。暴力を描くことが許されたから、より洗練された表現「も」その中に存在するだけだ。